インマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、一七二四年四月二十二日、馬具職人の息子としてブロイセンのケーニヒスベルク(Königsberg)で生まれた。両親の生活は困難であったので、裕福な親戚の援助によって彼はやっとコレギウム・フリデリキアヌム(Collegium Fridericianum)へ入学し、ついで故郷の町の大学で研究することが出来た。多分一七四六年まで彼は此の大学に属した、そして資産が無いに拘らず本来のパンの為の学問を放棄し、自己の興味に従って主として哲学的及び自然科学的研究に身を献げたように見える。ついで一七四六年から一七五五年まで家庭教師としての時代が続いて起こった。此の時代は彼を実際内面的には余り満足させなかったが、然し劇しい労作と収集へ利用された。然も此の時代の終わりに彼は『天体の自然史と理論』(Naturgeschichte und Theorie des Himmels)を発表した。此の年彼はついで又ケーニヒスベルク大学就職した。彼の知識は普遍的であったので彼は、本来哲学的な学科を自然地理学に関する講義によって、又後には人生論に関する講義によって補うことが出来た。彼はそれ等によって大学の青年を世間通にしようと試みた。生計を彼は、骨折ることによってやっと立てることが出来た。そして一部分は彼にとり煩わしい副収入によった。十五年彼は私講師として働かなければならなかった。さて此の時代にカントは著作的大活動を展開させた。六十年代の中に我々は彼の最初の大産出的時期を置かなければならない。彼が此の前批判期に研究したのは形而上学と認識論との問題である。此のことを特に『神の存在の論証の唯一可能の証明根拠據』(Das einzig mögliche Beweisgrund zn einer Demonstration des Daseins* Gottes)(一七六二年)と『自然的神学と論理学との原則の判明性に関する攻究』(Untersuchung über die Deutlichkeiter Grundsätze der natürlichen Theologie und der Moral)(一七六十四年)とが示すように、然しながら同時に我々は通俗的な学的著述家の傾向を追う彼を見出す。彼は美的問題を『美と崇高の感情に関する観察』(Beobachtungen über das Gefuhl des Schonen und Erhabenen)(一七六十四年)の中で麗しく愛らしく取り扱い、形而上学の夢を『視霊者の夢』(Träume eines Geistersehers)(一七六六年)に於いて諧謔的に機智的に諷刺する。
ついで一七七○年にケーニヒスベルクの正教授に任命された。さて此の新時期の最初の十年間は彼の批判的立場の完成に関する最も劇しい最も集中的な労作によって満たされた。そして一七八一年にこの時期の果実として『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft)が現れた。これによってカントの生涯に於ける第二の著作家的大時期が始まる。五十七歳のカントは主著が基礎を置いた哲学体系の仕上げに着手した。彼が広汎な講義活動の傍發展させた活動力は驚嘆に値するものであった。最も重要な体系的著作の年表がこれを明らかに語る。一七八三年に『序説』(Prolegomena)一七八五年に『道徳の形而上学の基礎』(Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)、一七八六年に『自然科学の形而上学的原理』(Metaphysische Anfangsgründe der Naturwissenschaft)、一七八八年に『実践理性批判』(Kriik der practischen Vernunft)、一七九○年に『判断力批判』(Kritik der Urteiskraft)、一七九三年に『単なる理性の限界内に於ける宗教』(Die Religion innerhalb der Grenzen der bloszn Vernunft)、一七九○年に『道徳の形而上学』(Metaphysik der Sitten)が現れた。
カント哲学は直ちに人々の力強い興奮を喚び起した。多数の弟子が出来た、制しがたい勢いを以て新思想は他の大学の講堂へ推し寄せた。然も多くの誤解、多くの迫害、及び必ずしも真実でない反対者との確執も亦生じた。かくして孤独なケーニヒスベルクの思想家はドイツ哲学界の中心点となり、外国も亦此の運動に参加した。此の創始者は緊張して且生々した興味を抱いて、自己の哲学の此の普及に従った。彼の生活は、種々の尊敬を受け、一種の安楽の中に且次第に裕福に成りつつ過ぎて行った。そこへ彼の名声が頂上に達した時に宗教令が彼に下った(一七九四年)。勿論カントは威嚇的な結果を自発的に服従によって避けたが、然し彼の内心はそれによって強く振動され、人類の進歩への彼の信仰は劇しく動揺に陥らされた。かくして此の最後の年の上に暗い影が下りた。勿論フリードリヒ・ウィルヘルム三世の即位は彼に再び、失われた労作の自由を与えたのであるが、然し今や程なく体力が仕えることを拒んだ。悼ましい老衰の中に老人は衰えて行った。一八○四年二月十二日に彼は死んだ。
カントは近代的な気分に特別に近い人物には属しない。本質の多方面、群衆に比較して違っていること、生活の表現に於ける不確実、及び最後に、非合理的な決して完全には測られぬ個性の基礎−−これが今日卓越せる人間に関する興味の向かうところである。さてカントはかかる期待を満足させることは出来ない。彼は複雑な性質ではなかった。そして彼の中には存在(ダーザイン)の諸問題をはっきりと掴み彼の生活をこれに従って整えようとする衝動が住んでいた。彼は自己告白の要求を感じなかった、一種の内気と、人間は自分の心の奥底を決して安全には表すことが出来ない否表はしてはならぬという思想とが彼にこれをなさしめなかった。又彼は彼の人格の魅力を我々に現実的に生々と伝へる伝記家を見出す幸福を持たなかった。かくして彼の生活の事実に就いて皮相的知識しかない所には、又彼の書簡と著書とを読むに際しても、彼の本質について一種の無情熱と衒学との印象が容易に成立し得るであろう。然も彼は、それの含む内面性に於いて嘗て人間が書いた最大のものに属する調子を発見したのである。誰が『実践的理性批判』に於ける義務への荘厳な呼びかけと此の書の有名な結語とを感動と利得となしに読むことが出来るだろうか。それ故に更に深く此の人格に入り込む試みがなされなければ、ならぬ。
ニーツェ(Nietzsche)が嘗てショーペンハウエル(Schopenhauer)の英雄的経歴ということを言ったことがある。此の英雄的経歴という言葉は恐らく一層よくカントに適合する、若し英雄主義とは強烈な直線的な意志による人生の克服という意味であるならば、人は大抵、出来上がった人間の示すのみで、此の人間の到達した確実性が「獲得されたもの」であることを注意しない。カントは人生に対する一種の対立の中に立った。彼は此の点で彼の時代の子であった。然し同時に、彼の境遇の特殊性、彼の少時の最初の印象、及び彼の受けた教育の中に、かかる態度へ導かれる要素があった。両親の家と学校とは経験主義の影響の下にあった。そして彼はこれから、此の思潮に非常に独特であるかの心の柔和と絶望的な諦めとを受けた。かかる気分にカントは抵抗しようと試みた、柔らげ、力を奪い、魂を萎靡させる感情との戦いは彼にとって人間教育の為の最も重要な課題の一つであった。他方彼は、この少時の教育に就いて、彼が神と人間とに対する義務の厳格な遂行の思想をそれから受け取ったということを誇った。此の最初の印象に間もなくストア哲学の影響が付け加わった。そして、彼が彼の徳の概念をストア哲学の学説によって先づ形成したということは実際確実である。又彼を人生が間もなく厳格な訓練に入れた。常に彼は虚弱な肉体と戦わなければならなかった。又欠乏を堪え忍ぶことによって辛うじて彼は彼の生活の維持を達することが出来た、十五年間彼は生存の終局的保証を待たなければならなかった。彼を保持し且つ彼に高貴な誇りを付与したものは彼の学的活動であった。此の中で彼は彼の学的地位の埋め合わせを獲得した、そして同時に彼の自然科学的労作と彼の宇宙の無限性に関する思想とは地上的活動の制限外へ導いた。此処で彼は人間の『多忙な愚鈍』に対する彼の優越を獲得した。同時に彼は此の個所で宇宙と人間との間の深い争闘を体験した。然しながら既に経験主義、又ついで更に力強くルソー(Rousseau)が彼の中に評価の他の源泉、即ち自己の内心を開いた。自己の内心はそれ自らの言葉を語った、あらゆる形体性と量の優越を超越せる人間の威厳を感じさせた。ルソーは同時に根源的な人間の罪の思想を破壊して、それに人間の根源的善の思想を置き代えた。世界と人間とに対するカントの同情はそれによって一層温かくなった、彼の眠れる論理的本能は解放された。そしてルソーの影響の下に彼は次の深い見解を獲得した、『人間の最大の務めは、如何にして彼は彼の職務を宇宙の中で適当に遂行するか、又如何にして彼は人間である為に人があらねばならぬものを正当に理解するか、を知ることである。』加えるに彼はこの時代に著作家として又人格として一般的承認を獲得した。それは彼の生涯の最も自由な時代であった、そして彼の生都の精神的興味を持てる上流社会に出入りした。然も結局彼は全く自己自身の上に立った。彼は彼の肉体と日常生活とを、微細に亙って考案され且常に遵奉された諸規制の体系に服させた。然し此の諸規制の体系は彼にとっては自己目的はなかった。この確実さに彼は、人生と人間とのもつ自由な取り扱いを結合し、優れた精神のアイロニーを其の不足に対して利用した。最後の価値から彼は人間を理解した。常に彼は他人の為に援助の準備をなしていた。そして他人の為に活動的であった、彼の感情が彼を深いにしたに違いない場合にさえも、人生の威厳の思想がかかる嫌厭に対して勝利を獲得した。彼の本質は一種の内的な厳粛さを持っているに相違いない、此のことを彼の聴講者は彼に就いて感じたのであった。
自然と宇宙との対立の中に、カントは人間の存在に関する彼の見解を掴んだ。此の根源上及び其の妥当上あらゆる有を超えて外を指し示す当為(ゾルレン)の中に於いて彼に意識された人間の一層高い本分の確実性の上に、彼の観念論は建てられた。これは戦いの世界観、行為(タート)の世界観であった。然しながら彼は、此の中に横たわれる要求に完全には適合しなかったということが承認されなければならぬ。彼は宗教令に服した。彼を弁解して、自己の余生を自己の体系の未だ完成しない仕上げへの安静の中に献げることが出来るという希望が引かれるだろう。又国家の権力の下に於ける個人の束縛が当時は一層強きものであったこと、及びカントの中にも亦、実際、妥当せる規制に反対しないという義務の感情が住んだということが忘れられてはならぬ。此のすべては妥当するであろう、然しながら此の観念論はシルレル(Schiller)及びフィヒテ(Fichte)の姿に於いて一層大胆に一層偉大に表されるということは感化されてはならぬ、此処にカントの人格の限界が見出される。彼は自由の観念論を形成したが、然しそれの中に横たわるエネルギーに従って完全に体験することをしなかった。かくして実際彼の学説は模範的であることが出来るが、然し彼の人格がそれと同程度で模範的であることは出来ない。然しながら人格に或親しい魅力が欠けてはいない。淋しく、彼の生都の狭い範囲に制限されて、此の人間は、鉄のごとき断案と顧慮することなき真実とを以て存在の問題を沈思した、それを彼はあらゆる地上的なものを超越せる道徳的理想の思想によって克服した。そして「最後の物」の尾kの熱心な研究によって彼の本質は静かな荘厳に包まれる。